An "I " Novel from The City Of Angels

Diary 『バンコク在住日本人ギタリストの日記』

バンコクの音はどんな音?

だいぶ前の話だけど、最初のソロ作品を作る為にアンビエントノイズを録ろうとマイクとレコーダーを持ってヘッドホン装着してひとりで山に入った。奈良県大峰山という女人禁制の修験者の修行場として有名な山だ。冬は山に慣れた人でも遭難するような厳しい山なのだけど入ったのは夏だった。俺が録りたかったのが鳥や虫の声や葉擦れの音や水音のような自然の中にあるノイズだったのが夏に行った理由だけど、あの頃の分別の付いていない視野の狭い俺ならば思い立ったら冬の山にでも入っていっただろう。雪の降り積もる音を録りたい…とか思ってなくてよかった。そんなことになっていたら今頃すっかりお山の土になっていただろう(笑)

登山口には結界の大きな鳥居があってそこから先は女性は入れない。その鳥居をくぐると本当に空気が変わる。聖域と言うのは本当にあるんだなぁと実感した瞬間だった。

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今考えるとかなり妙な状況だった。録音中は俺は録音機のスイッチを入れて数分間じっと息を潜めて録り終わるまで待つわけである。山に登る格好をしていないヘッドホンをしてマイクを掲げ持った男が山の中に突然座り込んでいるわけで奇人変人レベルである。大峰山は今でも修験者の山なので山伏姿の修験者が錫杖をシャンシャン鳴らしながら山道を速足で歩いていく。修験者は独特の挨拶をする。山の中ですれ違う度に『ようおかえり』って言われたのはかなり印象的だった。俺は山に帰って来たんだ…って感じで感動したのを憶えている。実はびっくりしてたんだろうな…自分でも思い出すと気持ち悪いし。でもあの時は自分の目的を達成することに必死でまるで周りが見えていなかった。ひどいもんだった。

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大峰山で録音した音は力強くて生命力に溢れていて美しかった。でも実際の音は俺の持っていた機材で録りきれるスケールの音ではなかった。巨木が立ち並ぶ森の中には周期的に霧が立ち込めては消え、生き物の鳴き声が生息している高度によって何層にも折り重なって音楽を奏でていて、それぞれのタイミングで明滅しながら互いに絡みあって巨大な生き物のように蠢いていた。どう足掻いても小さなコンデンサーマイク1本ではその素晴らしい音像のほんの一部しか録れなくて、なんとかして木に登ってみようかとか枝にロープをかけてマイクを釣り上げてみようかとか考えて山中をうろうろしてはみたが、深い山の中でひとりという状況である。結局何もできるはずがない。そのまま1時間ほどその場に立ち続けてその音を記憶することしかできなかった。音を録るという目的は達成できなかったが、そこに立ち続けた事はとても良い経験だった。森の中で俺は完全に異物だった。自分の事しか見えていないという心の状態も含めて完全に浮いていた。『おお!?俺はいったい何なんだ?』って感じである。今になってわかるが、あの時自分がとても小さい存在だということを理解したのだと思う。『なんだよ俺ぜんぜんたいしたことねえな』って感じだ(笑)なのでその後煮詰まるとよくひとりで山を歩くようになった。心の調整に良い。

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その後は方針を切り替えて小さな音を集めた。小さな音をコラージュすれば自分なりに大きな世界を描けるだろうと考えたからだ。とにかく山の中まで来たからにはやれるだけのことをやらなくてはもったいないしとにかく進むしかない。道を外れた険しい場所に入らないと人が歩く音が入ってしまうので荒らさないように気を付けながら入っていくんだけど、午後になるとなんだか歩きにくい…と足元を見ると山歩きにまるで向いていないごついリングブーツで山に入っていた。そんなことにすら気づいたのは山に入っただいぶ後だったのだ。頭が悪すぎた。水も1本しか持ってなかったし、食料はほぼ持っていなかった。なので夕方頃には空腹と疲労でぼーっとしてくるし膝はガクガクだし寒くなってくるしでもはや遭難寸前である。

山を下りた時にはブーツはボロボロで歩くのにも苦労するくらいの靴擦れで足は傷だらけで腫れ上がっていた。ただ、テンションが上がっていたので痛みに気づいたのは再び結界を通り抜けて一般道路を下り始めた時だった。靴を脱いだら足がえらいことになっていてそこから忘れていた痛みが襲ってきて登山口からキャンプ地までの道のりは地獄だった。壊れた靴を両手に持って靴下で下って行った。洞川温泉と言う修験者向けの温泉街にたどり着いた時は街の灯りが桃源郷に見えた。

収穫は持って行っていたメモリーカード4枚分のデータ。でもこの登山の後で少しマシな考え方をするようになったのでそちらの方が収穫だったかもしれない。

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そんなわけで今回も街の音を採集するところから製作開始。

バンコクの音はどんな音だろうな…。